Introduction Story


アフリカ映画の父 ウスマン・センベーヌが描く、愛と尊厳 そして勇気の物語
第57回 カンヌ国際映画祭 ある視点部門 グランプリ受賞

2004年 マラケッシュ国際映画祭 ゴールデン・スター賞ノミネート、特別審査員賞受賞
2005年 ロサンゼルス パン・アフリカン映画祭 審査員賞受賞
2005年 全米批評家協会賞 最優秀外国語映画賞受賞
2004年 ヨーロッパ映画賞 外国語映画賞 ノミネート
2005年 Chlotrudis Award 主演女優賞・作品賞ノミネート
2005年 イメージ・アワード インデペンデント 外国語映画賞 ノミネート
2005年 ポリティカルフィルム協会 PFS賞 ドキュメンタリー・人権カテゴリーノミネート
2005年 トロント映画祭 公式出品作品
2005年 サンセバスチャン映画祭 公式出品作品
2005年 ロッテルダム映画祭 公式出品作品
2005年 東京国際女性映画祭 出品作品

監督・製作・脚本:ウスマン・センベーヌ
出演:ファトゥマタ・クリバリ
原題:Moolaade/2004年/フランス・セネガル合作/ 35mm /
カラー /ヨーロピアン・ビスタ/ドルビーSR /124分/マンディンゴ語
協力


後援:

リンク:

「アフリカ・リミックス:多様化するアフリカの現代美術」
アフリカ大陸全土にわたる25ヶ国84名のアーティストによる
140点の最新アート (森美術館にて2006/5/27〜8/31開催)
「アフリカン・サマー 2006」
多様でエネルギー溢れるアフリカンアートを日仏学院で堪能!

「アフリカ協会」 The Africa Society of Japan
アフリカ情報満載、社団法人アフリカ協会の
ホームページ
「KONONO No1」(コノノナンバーワン)
こいつは超ヤバイぜ!電気グルーヴが日本中を躍らせる!
JAPAN TOUR 2006
 8/27(日) 日比谷野外音楽堂 など

「アフリカ屋」
アフリカの布・衣類・雑貨・楽器など様々なものを輸入。
町屋の一角に有る、小さなアフリカ♪



Review/海外批評

Top

★力強いメッセージとユーモア。そして驚くべき映像美。
他の映画の記憶が色あせても、「母たちの村」は私の記憶に残り続けるだろう。
ロジャー・エバート
                ★ 見逃してはならない作品!世界を変える可能性を持った、ヒューマニズム映画の頂点といえる傑作だ。
                                                                      ニューヨークタイムズ
★ 飾らないシンプルさと力強い巧みさが融合している。
ただポジティブな映画ではない、ポジティブに気分の良くなる映画だ。
ヴィレッジ・ボイス
                ★ 忘れえぬ作品!
                      bcc.co.uk
★ 今年一番意気揚々として力強い作品。
シアトル・ポスト・インテリジェンス
                ★ 良質で、勇気ある作品!
                         ガーディアン

Introduction/解説
Top

■■■アフリカの巨匠 ウスマン・センベーヌ監督が描く、愛と尊厳の人間賛歌■■■

83歳になった今もなお、アフリカへの想いを込めて映画製作を続ける巨匠ウスマン・センベーヌ監督。
「アフリカ映画の父」と呼ばれるセンベーヌが、女性たちの溢れんばかりの力強さと優しさを色鮮やかに描き出した、
愛と尊厳の人間賛歌が、「母たちの村」である。

西アフリカの小さな村で、ある日、4人の少女が割礼を嫌がり逃げ出して来たことをきっかけに、この物語は始まる。
古くからの伝統であり、反対することなど問題外であった割礼を廃止しようと、娘たちの為に立ち上がる母たち。
前代未聞の動きに、村の男たちは困惑し大混乱となる中、母たちは娘たちのために、未来のために、諦めることなく、闘い続ける―。

伝統を頑なに守ろうとする者、新たな未来を切り開こうとする者。本作は、小さな村で起こる、2つの価値観の衝突を通じて、アフリカの社会が抱える問題を浮き彫りにすると共に、「尊重しあい、勇気を持って生きること」の大切さを我々に教えてくれる。

※女子割礼ということばは、現在ではその弊害を訴え、廃絶を願う人々によって女性性器切除と呼ばれるようになっているが、映画「母たちの村」の日本語字幕では、作品の社会的状況を考慮して、割礼という訳語を使用し、またこのサイトもそれに習っている。

■■■世界で賞賛される 「アフリカ映画の父」■■■

アフリカは伝統的に文字のない文化を持っており、また公用語であるフランス語や英語を読み書きできない人も多い。
そんなアフリカにおいて、人々にメッセージを伝えるにはどうしたら良いのだろうか。
そう考えた時にセンベーヌ監督が辿りついた答えは、映画だった。
文字に頼る事なく、映像と音楽、そして物語を観客に届けられる映画の力強さを信じ、もともと作家であったセンベーヌ監督は40歳にして映画製作を志し、モスクワで学んだ。そして、日本でも公開された「エミタイ」(71)、「チェド」(76)など、アフリカへの熱い想いを込めた数多くの傑作を発表し続けている。

そして今、「アフリカ映画の父」として賞賛されるセンベーヌ監督が、3年もの月日を費やし完成させた「母たちの村」。
現在でもアフリカの多くの国々で問題となっている、女子割礼という難しいテーマを扱いながらも、人への愛・尊厳という世界共通のテーマを訴えるセンベーヌ作品。

その特有性と普遍性の融合に世界中から賞賛の声が寄せられ、第57回カンヌ国際映画祭ある視点部門グランプリ受賞、2005年全米批評家協会賞 最優秀外国語映画賞受賞を筆頭に、数々の賞に輝き、世界各国の映画祭で上映されている。

■■■アフリカで生まれた、アフリカの映画■■■ 

「母たちの村」は、アフリカ大陸で生まれ、世界へと広がった映画である。

モロッコ、マリ、ブルキナファソなどアフリカの国々と、フランスから集まった人達からなるチームで制作は進められた。キャストは主にブルキナファソで選ばれ、コートジボアール人や、マリ人、ブルキナファソ人など一般の人たちが本作に参加している。
驚くべきことに、主役のコレ・アルド役のファトゥマタ・クリバリは、マリのテレビ局に勤めている女性で、彼女も実際に割礼を受けている女性の一人なのである。監督の思いに現地の人々も協力し、アフリカ人による、アフリカ映画を作りあげたのだ。

また、ポストプロダクション作業も、敢えてヨーロッパでは行わず、モロッコの首都ラバトで行われた。
アフリカ大陸で生まれ、アフリカ大陸から世界へと映画を発信する事の重要性と喜びをセンベーヌ監督は信じる。監督の願い通り、本作品は「アフリカの声」として世界各国で賞賛を博し、彼に続くアフリカの映画人たちへの誇るべき道標となっている。

KEYWORD
Top

モーラーデ 【moolaade】
西アフリカの広い地域で話されているフルベ語の語彙である。語根のモール(mool‐)には「避ける、逃げる」といった意味と並んで「避難する」、「(〜のもとに)保護を求める」という意味がある。モーラーデという語には中世ヨーロッパにおいて、そこに逃げ込めば何人(なんぴと)の力も、法の力も及ばない避難所という意味があるフランス語のアジール(asile)と同様、聖域とか避難場所といった意味を持つと考えられる。

ビラコロ 【bilakoro】
西アフリカのバンバラ語で「割礼を受けていない人」を意味する。男子であれ、女子であれ、割礼を受けていないことは「不浄」という概念に結びつけられる。したがって、男子であれ、女子であれ、割礼を受けていないとは、直接的には結婚相手としてふさわしくないということになる。


Story/物語
Top



西アフリカのとある村。
コレは、第一ママ、第三ママや子供達に囲まれ、いつもと変わらぬ穏やかな朝を迎える。
“兵隊さん”と呼ばれる露天商が道端で食料品から身の回りの品まで売っている。
彼は買い物に来る女たちに次々と陽気に言い寄っている。

突然、4人の少女がコレのもとへと逃げ込み、怯えながら彼女の足にしがみつく。
「おばさん“保護”して!切られるの嫌だ!」

この村では、女の子たちは割礼を受ける決まりとなっていた。今年は6人の少女が受けるはずだったが、彼女たちは割礼を嫌がり、4人はコレのもとへ、そして他の2人は町へと逃げて行ってしまった。

コレもまた、他の女性たちと同じように割礼されている。その為に2人の子供を流産し、娘、アムサトゥの出産の時には帝王切開という大変な思いをしたのだ。

たとえ古くから伝わる伝統だとしても割礼は良くないと信じるコレは、7年前、アムサトゥに割礼をさせないという選択をしたのだった。割礼を受けてない女性は「ビラコロ」と蔑視され、きちんとした結婚相手も見つからないとされているこの村で、割礼を受けない事は大問題なのである。

4人の少女たちは、自分の娘に割礼を受けさせなかったコレに「モーラーデ」(=保護)を求めて逃げて来た。コレおばさんならば自分たちを守ってくれる、幼い彼女たちはそう信じたのだ。

そして、コレは少女たちを保護する事を決心する。
入り口に縄が掛けられ、「モーラーデ」が始まった。
コレがやめると宣言するまで保護は続けられ、誰も立ち入る事は出来ない。

この出来事で、村中が混乱でごった返す事となる。今までの伝統に真っ向から反対する行為に、村の男達は憤慨する。逃げてきた少女たちの母親も、娘をビラコロには出来ない、どうにか割礼を受けさせようと割礼師とともにコレの住居までやってくる。

コレは動じる事なく「モーラーデ」を続ける。自分の娘だけでなく、村の少女全員をビラコロにするのかと、夫からも注意を受けるが、彼女はあきらめない。

初めはこの騒動に巻き込まれるのを嫌がっていた、第一ママ、第三ママも、「私はあんたの味方よ。私も割礼は嫌いだよ。」そう打ち明け、次第にコレを応援するようになる。

伝統を頑なに守ろうとする者、新たな考えをする者。2つの価値観が衝突し、村の緊張は更に高まり騒然となる…

ウスマン・センベーヌとその改革的なイメージ                     サンバ・ガジゴ
Top

ウスマン・センベーヌは、母国セネガルの国境を越え、世界中で「アフリカ映画の父」として賞賛されている。彼は、1956年にマルセイユで発表した第一作目の詩集から、最新作Guelwaarに至るまで、5つの小説、5つの短編集、そして4つの短編映画、9つの長編映画、4つのドキュメンタリーを発表している。
アフリカ映画の中心地ともいえるブルキナファソでの、センベーヌ監督の人気は非常に高い。5年程前、ブルキナファソのワガドゥグで映画祭に参加した時、あるレストランで「ウスマン・センベーヌ」というメニューを見つけたり、センベーヌ監督の第1作目の小説のタイトル「黒人沖仲仕」(1956)と命名された緑と黒のタクシーを見て微笑ましく思ったものだ。

1923年、セネガル南部のカザマンスで、誕生したセンベーヌ。彼は、ここから世界の歴史に名を刻むこととなる。1936年に懲戒処分され、中学校教育を終了したが、ひどく船酔いをするので、父親の漁師の仕事を継ぐ事が出来なかった。そこで1938年にフランス領西アフリカの総督府であるダカールの親戚の所へと送られる。その後、1938年から1944年にかけて、機械工見習い、レンガ職人を経験。学校教育こそ受けていなかったが、読書を愛し、数々の映画を観て過ごした。

1944年、フランス人兵士として、ドイツ占領されていたフランス解放のために徴集され、その後ニジェールの植民地に第六歩兵部隊の運転手として派遣された。1946年に除隊した後ダカールへと戻り、建築労働組合に参加するようになる。そこで、植民地経済を1ヶ月にもおよび停止した、初めてのゼネストを経験し、フランス領アフリカの国家主義闘争の先導役を勤めた。

1947年、センベーヌは、悲惨を極めていた植民地経済の真っ只中に失業し、より良い暮らしと、長年のの”学ぶ夢”を叶えるためにダカールを発つ。フランスへと移住し、1960年のセネガル独立まで、マルセイユで暮らす。センベーヌは、フランス語を読み書き出来るアフリカ人として、労働組合のリーダー、ヴィクトル・ガニエール(VictorGagnere)に認定され、戦後フランスにおいて、最大かつ最有力の左翼組織、Confederation generale des travailleurs (CGT)に入団。船の荷おろしという重労働の傍ら、マルクス主義についてのセミナーやワークショップに積極的に参加し、1950年にはフランス共産党に入党。1951年、荷おろしの際に背骨を骨折。回復まで時間が掛かり、重労働を続けることが不可能となったセンベーヌだが、構内作業員の職を与えられた。このことが肉体労働者から頭脳労働者へと変わるきっかけとなった。

引き続き図書館、美術館、映画館を廻り、同時にマルクス主義と共産主義のセミナーに参加し続ける。新たな変革への情熱に燃えていたマルセイユ時代に、フランス共産党が組織したインドシナ戦争(1953年)と朝鮮戦争(1950−1953年)への反戦運動にも参加した。また、フランスからの独立運動をしていたAlgerian National Liberation Front (FLN)を支援し、1953年のアメリカの死刑反対運動にも熱心に参加した。

このように非常に熱心に政治活動する中、彼はリチャード・ライト、ジョン・ドス・パソス、パブロ・ネルーダ、アーネスト・ヘミングウェイなどの共産主義の芸術家や作家達の存在にも触れる。
さらに、ジャマイカ人共産主義作家、クロード・マッケイの作品とも出会う。センベーヌの処女作は、1929年のクロードの小説「Banjo」から影響を受けている。

センベーヌは、国際的レベルでの革命的変化を求めて、多くの仲間と共に闘ってきた。しかし、革命的な芸術家や作家がアフリカに存在しないという事実に疑問を抱くようになった。そして、アフリカの芸術・文化をアフリカから発信する為に情熱を注ぐようになる。

1956年以来、センベーヌは「日常のヒロイズム」と称するアフリカの人々の日々の葛藤を描き続けている。闘い続けるアフリカの人々を解放し、威厳を回復させる為に努力する一方、映画・文学などの芸術作品は、単なる現実描写もしくは、政治的スローガンであってはならないと信じている。

アフリカの人達に、文字では伝えられないメッセージを、映画を通して伝えたいと願い、映画製作を志す。40歳になる頃奨学金を受け、モスクワへ渡り映画製作を勉強する決心をし、1962年からの1年間、映画撮影技術を学んだセンベーヌ。その年の終わりにセネガルへ帰国。1963年、センベーヌ初監督作品となる「ボロム・サレット(borom sarret)」は、初めて世界市場に出たアフリカ映画となる。

それは、映画撮影技術発明から68年後、そしてルミエール兄弟の「列車の到着」がセネガルで上映されてから63年後の出来事だった。センベーヌ監督のおかげで、アフリカは、アフリカ以外で作られた映画の消費者ではなく、アフリカの独自の映画の「生産者」となったのである。

1964年に、村の貴族の近親相姦の物語「ニアイユ(Niaye)」を監督。これら初期の短編2作品の後、1965年に初の長編映画「黒人女(La NOIRE DE…)」で、ジャン・ヴィゴ賞、ダカール世界黒人芸術祭大賞、カルタゴ映画祭グランプリ受賞。アフリカ人により初めて製作された長編映画で、一躍アフリカ映画の存在を国際社会へと知らしめた。

その後、「エミタイ」(1971を監督。センベーヌ監督初となる歴史作品は、第二次世界大戦中に起こった、セネガル兵士の強制徴兵の物語である。1973年に発表した小説の映画化「ハラ:不能者(Xala)」を1974年に製作。1976年には、セネガルにおけるイスラム教の歴史を描き議論を呼び起こし、国際的にも認められた「チェド」を発表する。また、エミタイの続編である 「ティアロユ基地(CampS de Thiaroye) 」(1988) はフランスによる、第二次世界大戦からのアフリカ人帰還兵の虐殺を描いている。1993年には、「Guelwaar」を発表。

センベーヌは20世紀が終わる直前に「Faat Kine」 (2000)というアフリカ人女性の闘いを描いた作品を製作。
そして今、本作「母たちの村」(2004)で、21世紀をスタートさせたのである。

■ウスマン・センベーヌ フィルモグラフィー■
1963    ボロム・サレット BorromSarret
1964    ニアイユ Niaye
1966    黒人女 La Noire de…
1968    郵便為替 Mandabi
1969    一夫多妻 POLYGAMIE
1970    タウ (長男) TAUW
1971    エミタイ(雷神) EMITAI
1972    ミュンヘン・オリンピックにおけるアフリカのバスケット BASKET AFRICAIN AUX J.O. DE MUNICH
1972    ミュンヘン・オリンピック L'AFRIQUE AUX OLMPIADES
1974    ハラ(不能者) XALA
1976    チェド(抵抗者) CEDDO
1988    ティアロユ基地 CAMPS DE THIAROYE
1992    GUELWAAR
2000    FAATKINE
2004    母たちの村 Moolaade


 
             



全ての素材の全体または一部を使用する事は禁止されています。
Copyright 2003 株式会社エプコット アルシネテラン・ディヴィジョン All rights reserved.