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アフリカ映画の父 ウスマン・センベーヌが描く、愛と尊厳 そして勇気の物語 |
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Review/海外批評 |
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★力強いメッセージとユーモア。そして驚くべき映像美。 |
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Introduction/解説 |
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■■■アフリカの巨匠 ウスマン・センベーヌ監督が描く、愛と尊厳の人間賛歌■■■ 83歳になった今もなお、アフリカへの想いを込めて映画製作を続ける巨匠ウスマン・センベーヌ監督。 伝統を頑なに守ろうとする者、新たな未来を切り開こうとする者。本作は、小さな村で起こる、2つの価値観の衝突を通じて、アフリカの社会が抱える問題を浮き彫りにすると共に、「尊重しあい、勇気を持って生きること」の大切さを我々に教えてくれる。 ※女子割礼ということばは、現在ではその弊害を訴え、廃絶を願う人々によって女性性器切除と呼ばれるようになっているが、映画「母たちの村」の日本語字幕では、作品の社会的状況を考慮して、割礼という訳語を使用し、またこのサイトもそれに習っている。 ■■■世界で賞賛される 「アフリカ映画の父」■■■ アフリカは伝統的に文字のない文化を持っており、また公用語であるフランス語や英語を読み書きできない人も多い。 そして今、「アフリカ映画の父」として賞賛されるセンベーヌ監督が、3年もの月日を費やし完成させた「母たちの村」。 ■■■アフリカで生まれた、アフリカの映画■■■ 「母たちの村」は、アフリカ大陸で生まれ、世界へと広がった映画である。 モロッコ、マリ、ブルキナファソなどアフリカの国々と、フランスから集まった人達からなるチームで制作は進められた。キャストは主にブルキナファソで選ばれ、コートジボアール人や、マリ人、ブルキナファソ人など一般の人たちが本作に参加している。 |
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KEYWORD |
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モーラーデ 【moolaade】
ビラコロ 【bilakoro】 |
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Story/物語 |
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| 西アフリカのとある村。 コレは、第一ママ、第三ママや子供達に囲まれ、いつもと変わらぬ穏やかな朝を迎える。 “兵隊さん”と呼ばれる露天商が道端で食料品から身の回りの品まで売っている。 彼は買い物に来る女たちに次々と陽気に言い寄っている。 突然、4人の少女がコレのもとへと逃げ込み、怯えながら彼女の足にしがみつく。 この村では、女の子たちは割礼を受ける決まりとなっていた。今年は6人の少女が受けるはずだったが、彼女たちは割礼を嫌がり、4人はコレのもとへ、そして他の2人は町へと逃げて行ってしまった。 コレもまた、他の女性たちと同じように割礼されている。その為に2人の子供を流産し、娘、アムサトゥの出産の時には帝王切開という大変な思いをしたのだ。 たとえ古くから伝わる伝統だとしても割礼は良くないと信じるコレは、7年前、アムサトゥに割礼をさせないという選択をしたのだった。割礼を受けてない女性は「ビラコロ」と蔑視され、きちんとした結婚相手も見つからないとされているこの村で、割礼を受けない事は大問題なのである。 4人の少女たちは、自分の娘に割礼を受けさせなかったコレに「モーラーデ」(=保護)を求めて逃げて来た。コレおばさんならば自分たちを守ってくれる、幼い彼女たちはそう信じたのだ。 そして、コレは少女たちを保護する事を決心する。 この出来事で、村中が混乱でごった返す事となる。今までの伝統に真っ向から反対する行為に、村の男達は憤慨する。逃げてきた少女たちの母親も、娘をビラコロには出来ない、どうにか割礼を受けさせようと割礼師とともにコレの住居までやってくる。 コレは動じる事なく「モーラーデ」を続ける。自分の娘だけでなく、村の少女全員をビラコロにするのかと、夫からも注意を受けるが、彼女はあきらめない。 初めはこの騒動に巻き込まれるのを嫌がっていた、第一ママ、第三ママも、「私はあんたの味方よ。私も割礼は嫌いだよ。」そう打ち明け、次第にコレを応援するようになる。 伝統を頑なに守ろうとする者、新たな考えをする者。2つの価値観が衝突し、村の緊張は更に高まり騒然となる… |
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ウスマン・センベーヌとその改革的なイメージ サンバ・ガジゴ |
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ウスマン・センベーヌは、母国セネガルの国境を越え、世界中で「アフリカ映画の父」として賞賛されている。彼は、1956年にマルセイユで発表した第一作目の詩集から、最新作Guelwaarに至るまで、5つの小説、5つの短編集、そして4つの短編映画、9つの長編映画、4つのドキュメンタリーを発表している。 1923年、セネガル南部のカザマンスで、誕生したセンベーヌ。彼は、ここから世界の歴史に名を刻むこととなる。1936年に懲戒処分され、中学校教育を終了したが、ひどく船酔いをするので、父親の漁師の仕事を継ぐ事が出来なかった。そこで1938年にフランス領西アフリカの総督府であるダカールの親戚の所へと送られる。その後、1938年から1944年にかけて、機械工見習い、レンガ職人を経験。学校教育こそ受けていなかったが、読書を愛し、数々の映画を観て過ごした。 1944年、フランス人兵士として、ドイツ占領されていたフランス解放のために徴集され、その後ニジェールの植民地に第六歩兵部隊の運転手として派遣された。1946年に除隊した後ダカールへと戻り、建築労働組合に参加するようになる。そこで、植民地経済を1ヶ月にもおよび停止した、初めてのゼネストを経験し、フランス領アフリカの国家主義闘争の先導役を勤めた。 1947年、センベーヌは、悲惨を極めていた植民地経済の真っ只中に失業し、より良い暮らしと、長年のの”学ぶ夢”を叶えるためにダカールを発つ。フランスへと移住し、1960年のセネガル独立まで、マルセイユで暮らす。センベーヌは、フランス語を読み書き出来るアフリカ人として、労働組合のリーダー、ヴィクトル・ガニエール(VictorGagnere)に認定され、戦後フランスにおいて、最大かつ最有力の左翼組織、Confederation generale des travailleurs (CGT)に入団。船の荷おろしという重労働の傍ら、マルクス主義についてのセミナーやワークショップに積極的に参加し、1950年にはフランス共産党に入党。1951年、荷おろしの際に背骨を骨折。回復まで時間が掛かり、重労働を続けることが不可能となったセンベーヌだが、構内作業員の職を与えられた。このことが肉体労働者から頭脳労働者へと変わるきっかけとなった。 引き続き図書館、美術館、映画館を廻り、同時にマルクス主義と共産主義のセミナーに参加し続ける。新たな変革への情熱に燃えていたマルセイユ時代に、フランス共産党が組織したインドシナ戦争(1953年)と朝鮮戦争(1950−1953年)への反戦運動にも参加した。また、フランスからの独立運動をしていたAlgerian National Liberation Front (FLN)を支援し、1953年のアメリカの死刑反対運動にも熱心に参加した。 このように非常に熱心に政治活動する中、彼はリチャード・ライト、ジョン・ドス・パソス、パブロ・ネルーダ、アーネスト・ヘミングウェイなどの共産主義の芸術家や作家達の存在にも触れる。 センベーヌは、国際的レベルでの革命的変化を求めて、多くの仲間と共に闘ってきた。しかし、革命的な芸術家や作家がアフリカに存在しないという事実に疑問を抱くようになった。そして、アフリカの芸術・文化をアフリカから発信する為に情熱を注ぐようになる。 1956年以来、センベーヌは「日常のヒロイズム」と称するアフリカの人々の日々の葛藤を描き続けている。闘い続けるアフリカの人々を解放し、威厳を回復させる為に努力する一方、映画・文学などの芸術作品は、単なる現実描写もしくは、政治的スローガンであってはならないと信じている。 アフリカの人達に、文字では伝えられないメッセージを、映画を通して伝えたいと願い、映画製作を志す。40歳になる頃奨学金を受け、モスクワへ渡り映画製作を勉強する決心をし、1962年からの1年間、映画撮影技術を学んだセンベーヌ。その年の終わりにセネガルへ帰国。1963年、センベーヌ初監督作品となる「ボロム・サレット(borom sarret)」は、初めて世界市場に出たアフリカ映画となる。 それは、映画撮影技術発明から68年後、そしてルミエール兄弟の「列車の到着」がセネガルで上映されてから63年後の出来事だった。センベーヌ監督のおかげで、アフリカは、アフリカ以外で作られた映画の消費者ではなく、アフリカの独自の映画の「生産者」となったのである。 1964年に、村の貴族の近親相姦の物語「ニアイユ(Niaye)」を監督。これら初期の短編2作品の後、1965年に初の長編映画「黒人女(La NOIRE DE…)」で、ジャン・ヴィゴ賞、ダカール世界黒人芸術祭大賞、カルタゴ映画祭グランプリ受賞。アフリカ人により初めて製作された長編映画で、一躍アフリカ映画の存在を国際社会へと知らしめた。 その後、「エミタイ」(1971)を監督。センベーヌ監督初となる歴史作品は、第二次世界大戦中に起こった、セネガル兵士の強制徴兵の物語である。1973年に発表した小説の映画化「ハラ:不能者(Xala)」を1974年に製作。1976年には、セネガルにおけるイスラム教の歴史を描き議論を呼び起こし、国際的にも認められた「チェド」を発表する。また、エミタイの続編である 「ティアロユ基地(CampS de Thiaroye) 」(1988) はフランスによる、第二次世界大戦からのアフリカ人帰還兵の虐殺を描いている。1993年には、「Guelwaar」を発表。 センベーヌは20世紀が終わる直前に「Faat Kine」 (2000)というアフリカ人女性の闘いを描いた作品を製作。 ■ウスマン・センベーヌ フィルモグラフィー■ |
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